INTERVIEWS

奥ゆかしく聡明。しかしアーティストとしての探究心や炎は誰よりも強く燃えている。TENBIは、そんな津軽三味線奏者だ。福居流師範であり、津軽三味線全国大会で2年連続準優勝(女性津軽三味線奏者で2年連続準優勝は例がないので、女性津軽三味線奏者としては実質世界一)という実力派ながら、サイケデリックトランスからロックまで幅広い音楽知識と感覚を持つ彼女。そのフレキシブルでストイックなスタイルは如何にして育まれたのか。現在に至るまでの軌跡を振り返ってもらった。

 

——もともとご両親が三味線をやってらしたそうですね。

TENBI: 私は東京の押上で生まれました。両親が割烹料理本店「久とら」という料理屋をやっておりまして支店は千葉で祖母が旅館を。

 

そこでうちの父が三味線を細棹で津軽のものを弾いたりしていたんです。お客さんに和をもっと楽しんでもらおうという、自分なりの弾き方で盛り上げているっていう、そんな父だったので。それを見ていた私が、高校に入る時にやってみたいなって。それが津軽三味線だったんです。高校を卒業し店を手伝いながら一生懸命三味線を勉強していました。

——和の文化が身近にあったんですね。

TENBI: そうですね。母方の祖母が角田流の踊りの名取でもあり、祖父は確か会長もしており私も連れていってもらったりですとか。おばあちゃん子だったので、いろいろ影響されました。

——でも、その年頃って、同級生はそういう音楽なんて聴かないでしょう。

TENBI: まったく聴かないですね。ダサいですとか、そういう時代だったので。和なんて、お年寄りがやるイメージですよね。だから、高校時代は友達に三味線をやってる事を隠して一生懸命勉強してました。

——それでも続けていたのは、三味線に強い魅力を感じていたわけですよね?

TENBI: そうですね。まず三味線のそのボリューム感と言いますか。音のレベルが大きいですとか。カッコいい楽器だなって。細棹で弾くんじゃなく、太棹で弾いてみたいというか。最初はおばあちゃんの三味線を弾いていたんですけど、細棹で津軽弾きを弾いてたので。うちの父母も祖母と一緒に家の中でやってたんですが、それをずっと姉弟で見て育ちました。

——ロックやポップスの人たちが音楽に目覚めて楽器を始めるのもそれくらいの年齢ですね。

TENBI: そうですね。そっち側に私もいて。担当は…、いろんな楽器が好きだったので、ドラムですとかベースですとか。ギターはできなかったけど家にはありました。

——同じ弦楽器なのにやらなかったんですか。ギターと三味線をやる人ってけっこういますけど。

TENBI: ポジションが…、指の感覚がちょっと違ったり、構え方が違ったり。それは三味線に影響があるかなって。その当時 師匠から、ギターと三味線はちょっと持ち方も違うし、崩れるんじゃないかっていうアドバイスをいただいて。絶対こういうバンドに三味線が入ったほうがカッコいいのにっていうのはずっと思ってましたけど。そんなふうな音楽の聴き方で育ってきた感じですね。

——三味線を始めた時は、最初から先生について?

TENBI: はい。うちの店の近くに福居典大先生のお稽古場がありまして。津軽三味線を習ってみたいと親に言ったところ、近くに良い先生がいるからって習いに行かせてもらったんですね。

——その時から三味線でプロになろうと思ってました?

TENBI: プロになったらカッコいいんだろうなぁとは思ってましたね。どうせやるならとことんってイメージで。でも、うちの店も忙しかったですし、調理師免許も取って、調理師の道に進んで親の店を手伝ってっていううちの姉弟の考え方もありまして。

 

——料理も勉強しつつ、三味線もやりつつですか。バンドもやってらしたとか。

TENBI: お友達がいろんな種類のバンドを組んでおりまして、そこに遊びに行ったりしてました。

——ちなみにどんな曲を?

TENBI: その当時流行っていたBOOWYですとか、D'ERLANGER、JUSTY-NASTYとか。基本、私は見てるだけだったんですけど、うちにも叔父からいただいたドラムがあったので、ちょこちょこ叩いたり。

——ドラムはけっこう本気でやってらしたと伺いました。

TENBI: そうですね。でも、弟のほうがけっこう上手になりまして、弟がLOUDNESSのコピーをし始めて。後々、樋口宗孝さんと仲良くさせていただき、弟もご本人から直接教わる仲に(笑)。 自分のお友達にもLOUDNESSのコピーをやってたバンドがいたので、そこでちょっとドラムに座ってドコドコやったり、いろんなジャンルをやりましたね。スコアから見て、タブ譜も。タムはここの部分はどこを叩けばこの音なのかとか、自分で勉強して。でも結局、複雑すぎてできなかったんですけど。X JAPANですとか。

——えっ、X JAPANですか!

TENBI: ええ、「紅」とか「ウイークエンド」とか懐かしいですね。

——意外です。今はこんなしっとりした美しい女性なのに。

TENBI: いえいえ、とんでもないです。そういう曲が好きなバンドの側にずっといましたね。ドラムが好きで、自分の部屋にも何台かドラムセットがありましたし。その頃にドラムで培った自分なりの自己練習が、三味線のパーカッション的な奏法にすごく生きてるなと思います。

——そこで三味線を極めようってことでコンテストにも出られたり?

TENBI: どうせ続けるのであれば、タイトルをしっかり獲って、自信をつけようと。でも、やっぱり津軽三味線は男性が弾く楽器っていう頭があったので、女性はかなわないなって。それで女性らしい違った意味の音使い、弾き方、演奏方法で区別がつけられたらなっていう、そういう勉強もしたんですが、やっぱり難しいですね。男性よりも男性らしくというか、男性にない男性らしさっていうのを目指して、力をつけてみたり、必要以上に重い物を持ったり。手首にいっぱい重りを付けたりとか。

——津軽三味線のコンテストって全国にあるんですか?

TENBI: 今は各地に広まりました。当時はまだ青森に一つ二つ、東京に一つとか、それくらいでしたね。本場の青森でも賞に入りたくて狙って行ったのですが、皆さんすごいレベルで、ましてや女性も少なく。津軽三味線って、元は新潟の小林ハルさんという細棹の女性の方が青森に伝えて、それが津軽地方で発達したんですね。なので、その女性らしさっていうところを少し含めた奏法もいろいろ勉強してみたんですけど。そういう曲を作ったり、自分にしかない奏法を入れてみたりとか、自分なりに工夫はしてみたんですが、難しかった時代でした。

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——でも、そんな時代に、その中に混じって準優勝ってすごいですね。

TENBI: ありがたいですね。主催の方々からも、すごく面白い特徴のある演奏を聴かせてもらいましたとかそういうコメントをいただいて。あ、自分のことを言われてるって。髪の毛は茶髪で、金色に近かった気がします(笑)。「何を弾くかわからないような子が出てきて、すごくいい三味線を弾きました」とか、舞台でコメントしてくださって。その一言で、また心が「よし、頑張ろう!」って思えました。

——それにしても、茶髪ですか。

TENBI: 金色とかオレンジとか。ちゃんとスプレーしたり隠したりした時代もあったんですが(笑)。

——校則違反の話みたいですね(笑)。でも、いわゆる正統派のところで準優勝という評価を受けて、それはすごく自信になりますよね。で、その後すぐ作品作りとかアーティスト活動に?

TENBI: 入りたかったんですが、いろいろ興味がありまして、自分の友達含めバンドを組みたかったんです。民謡をアレンジしたバンドを組んだり、そういう活動を多々行っておりました。

"ジャンルにとらわれず、こういう音楽に民謡を取り入れたら面白いのかなっていう聴き方しかしてこなかった"

——2006年にTENBI名義でリリースした『TENBI REBIRTH~再生』の音楽性は新鮮でした。

TENBI: 自分の頭の中ではエニグマとかディープフォレストとか、BGM的なイメージで臨んでいたら、サウンドプロデューサーの方からのアドバイスもありつつ、ああいう形にさせてもらいました。

——ああいうマッチングのサウンド感はTENBIさんの中にもともとあったものなんですか?

TENBI: 以前からジャンルにとらわれず、こういう音楽に民謡を取り入れたら面白いのかなっていう聴き方しかしてこなかったので。ここのフレーズのフィルとメロディーのコードのバランスってすごく絶妙に合うんじゃないかとか。いまだにそんな感じです。

——トランス系の音楽もお好きなんですよね。

TENBI: 大好きですね。本当にリラックスができるというか。

——トランス系と言っても、チル…まったり系もありますし、アッパー系もあります。

TENBI: いろいろありますよね、大好きですね。静かなパートで民謡のあそこのパターンを合わせたらカッコいいなとか考えてたり、不思議な子でしたね(笑)。

——クラブにも行かれていたそうですが、どんなお店に行ってたんですか?

TENBI: 新宿とか…、六本木も好きでしたね。新宿のローリング・ストーンにも行ってました。

——あそこはトランス系じゃないじゃないですか。

TENBI: そうですね。ばりばりロックでしたよね。またそれも大好きなんですよ。レゲエにも行ってみたり。

——新宿、六本木がメインの遊び場だったんですね。

TENBI: 遊んでたというより、勉強してたっていう感覚ですね。人生の勉強(笑)。ほんとに一人で行ってたので。そこのDJや音楽が好きだったりとか、カウンターの端っこで飲んでるだけで幸せだったので。一生懸命そこでリズムとか取り入れて、飲みながらっていう。そういう女の子でしたね。

——バーやクラブって、良い音楽や新しいカルチャー、ファッションにも出会いますよね。

TENBI: そういう面白くて安心なお店をはしご。六本木を7軒とか8軒とかはしごして。

——一晩に?

TENBI: はい(笑)。今日の音楽はちょっとイケてないし、ボリュームも自分に合ってないって感じで、違うお店を求めに行こうっていうか。それで気づけばお酒も強くなってるのかなって(笑)。でも、お酒よりも音楽。この曲いいなぁとか。店に入る前にそういう良い音楽が聞こえてくると、もうゾクゾクしながら乗り込んでいったりしてましたね。

——2012年、電通の武藤氏が発起人となった“日本文化を考える会”で木村さんと出会ったのをきっかけに、ファッションデザイナー・Yuima Sato氏、華道家でカメラマンの勅使河原城一氏、映像監督・北村龍平氏らによるTENBIプロジェクトチームが結成されます。

TENBI: その当時、一緒に居ようとしていた方が亡くなったり、いろんなことが重なって、心の病というか、そういうのが大きくなってしまって。自分も楽しめないのに人様にそういうのをしてはいけないっていう思いもあり、音楽をピタッと止めてまして。外にも出なくなったし笑わなくなったので、当時お弟子さんが「師匠、行きましょう」ってその会に何度も誘ってくれてたんですよ。ずっと断ってたんですが、やっと来たのがそこだったんです。そんな感じだったので、木村さんとお会いしたところで、最初は一緒に何かっていうこともまったくなかったんです。

 

——TENBIさんも木村さんも、やろう!みたいな感じで会ったわけじゃないんですね。

TENBI: 全然です。ですが、木村さんと出会って、音楽の見方というか目線を変えさせていただいて。自分の解釈でしか音楽を理解できていなかったのに、いろんな意見を知ることができたというか。生きられる気持ちになれて。木村さんに助けていただきましたね。音楽に触れたくないというか、自分の好きなものをやる気持ちにはなれなかった時期もあったんです。もどかしさとか悔しさは心にありつつ、触れたいのに触れられない自分のイヤな自分。そういうのが重なった時代でした。

――2018年には、t-kimuraのプロジェクト“Orbitribe”に加入しますが、ここでさらに大胆なトランス系サウンドへとシフトします。

TENBI: 好きな音楽にどんどん近づいてますね。その後、日本っぽいというか、木村さんの音楽にないものへ木村さんが寄せてくださったりですとか。そういうふうにはなるんですけど、“Orbitribe”のお話しをいただいた時はすごく嬉しかったです。こういうジャンルにこういう音楽がここにあればもっと幅広く面白いものがもっとあるはずだって思ってたので。探し求めちゃうんですよ。

――“Orbitribe”の活動があって、TENBIさんとしてもまた音楽活動を活発にやっていこうという気持ちになったわけですね。

TENBI: はい。面白くなったというか、自分が生きてる感じが。生きていて良かったねっていう感じが年々、本当に増してきてますね。どんどん、いろんな挑戦もしたくなったというか。いろんな不安も重なりますが、とりあえず挑戦してみようっていう気持ちになってます。

――今回の連続リリース第一弾「TABARUSAKA-The Last Samurai」は、熊本県の民謡なんですね。

 

TENBI: 違うお仕事で現場に行ってる時に、たまたま「田原坂」を聴く機会が多かったんですよ。改めていい歌ですねっていうのを意識しつつ、こういう伝え方で伝わるともっといいのになとか自分なりに考えていたり、胸に秘めていた曲です。本当に素敵な民謡は各地にたくさんあるので、自分の演奏をきっかけとして、じゃあ元の歌ってどういうところの民謡なんだろうって興味をもっていただいて、その土地のものを広められたらとも思います。私もそうでしたから。その土地土地の保存会の方にたどり着いて、この歌詞ってなんだろうって調べたり。

――今後の作品でも、その土地土地の民謡の魅力を皆さんと発見できたらいいですね。

TENBI: はい、楽しみです。本当に民謡って、いいメロディーですとか、いい歌詞がたくさんあるんです。字余りや裏間もあって合わせにくいですけど、そこもまた課題として。それをリズムにのせて、皆さまに紹介できたら。それで、皆さんもまた、こんな民謡があるんだっていうところを発見していただけたらいいですね。自分も勉強しつつ、また挑戦として取り組んでいけたらなと思います。

 

取材・文=舟見佳子